『ジョーカー:フォリア・ドゥ』は狂気の伝染と人間性の回復を描き、ミュージカル表現はアーサーの内面を効果的に表す一方、リアリティを損ねるという批判もあり、様々な議論を呼ぶ作品です
考察① 前作との対比から見るフォリア・ドゥ
前作『ジョーカー』と今作『ジョーカー:フォリア・ドゥ』は、対照的な物語構造を持っています。
前作は、一人の男アーサー・フレックが社会の抑圧と自身の精神疾患によって、ジョーカーへと変貌していく過程を描きました。
彼はピエロの仕事で生計を立てながら、コメディアンを目指していましたが、周囲との軋轢や自身の内なる葛藤に苦しみ、次第に追い詰められていきます。
その結果、彼は抑えていた感情を爆発させ、暴力に身を委ねることでジョーカーとして覚醒します。
一方、今作はジョーカーとして生きるアーサーが、再び一人の人間へと回帰していく物語として描かれています。
彼は収容された精神病院でリーと出会い、彼女との関係を通して自身の内面と向き合っていきます。
前作で描かれたジョーカーの誕生とは逆に、今作ではジョーカーという仮面を脱ぎ捨て、人間らしさを取り戻していく過程が描かれているのです。
ラストシーンも前作と対照的です。
前作では、アーサーは憧れの対象であったマレー・フランクリンをテレビの生放送中に殺害しました。
今作では、アーサー自身が何者かに刺されるという形で物語は幕を閉じます。
これは、前作でアーサーが「殺害者」であったのに対し、今作では「殺害される者」へと立場が逆転していることを示唆しています。
このように、前作と今作は鏡合わせのような構造を持っており、一人の男の変容を異なる視点から描いていると言えるでしょう。
考察② 「フォリア・ドゥ」が描く狂気の伝染
「フォリア・ドゥ」とは、フランス語で「二人で共有する狂気」という意味の精神医学用語です。
このタイトルが示す通り、今作ではアーサーとリーの関係性が重要なテーマとなっています。
アーサーは精神病院でリーと出会い、互いに惹かれあっていきます。
しかし、二人の関係は単なる恋愛関係とは異なり、狂気を共有する共依存的な関係として描かれています。
リーはアーサーの狂気に共鳴し、彼をジョーカーとして受け入れます。
彼女の存在は、アーサーが再びジョーカーであろうとする動機の一つになっていると言えるでしょう。
しかし、リーの存在は同時にアーサーを人間として繋ぎ止める役割も果たしています。
彼女との交流を通して、アーサーは人間らしい感情を取り戻し、ジョーカーという仮面を脱ぎ捨てることを選びます。
このように、「フォリア・ドゥ」は狂気の伝染と同時に、人間性の回復という二つの側面を描いているのです。
この映画は、狂気がいかに伝染し、人を蝕んでいくのかを描くと同時に、人間関係がいかに人を救い、人間性を取り戻させてくれるのかを描いていると言えるでしょう。
考察③ ミュージカル的表現の意味
今作では、ミュージカル的な表現が多用されています。
アーサーとリーの妄想シーンなどがミュージカル仕立てで描かれており、物語に独特の雰囲気を加えています。
これらのミュージカルシーンは、アーサーの精神状態を表現する手段として機能しています。
彼の妄想世界は、現実と虚構が入り混じった不安定な状態であり、ミュージカル的な表現はその曖昧さを効果的に表現しています。
また、これらのシーンはアーサーとリーの感情的な繋がりを強調する役割も果たしています。
歌や踊りを通して、二人の感情がより直接的に表現され、観客に伝わるようになっています。
しかし、これらのミュージカルシーンは同時に、物語のリアリティを損なっているという批判もあります。
特に、ジョーカーというシリアスな題材を扱っている作品において、ミュージカル的な表現は不釣り合いだと感じる観客もいるかもしれません。
これらのミュージカルシーンは、アーサーの内面世界を表現する上で効果的な手法である一方、物語のリアリティを損ねる可能性も孕んでいると言えるでしょう。
まとめ
『ジョーカー:フォリア・ドゥ』は、前作とは異なる視点からジョーカーを描いた作品です。
前作がジョーカーの誕生を描いた物語であったのに対し、今作はジョーカーからの脱却を描いています。
「フォリア・ドゥ」というタイトルが示す通り、今作では狂気の伝染と人間性の回復という二つのテーマが描かれており、ミュージカル的な表現はアーサーの内面世界を表現する上で効果的な役割を果たしています。
ただし、これらの要素は同時に物語のリアリティを損ねているという批判もあり、評価が分かれる要因となっています。
この映画は、前作を高く評価した人にとっても、そうでない人にとっても、様々な議論を呼ぶ作品と言えるでしょう。