映画「あんのこと」は、2020年に実際に起きた出来事に着想を得て、コロナ禍で社会の底辺に追いやられた女性の生き様を描いた作品です。
本作は単なる悲劇として終わるのではなく、監督の強い思いと制作陣のこだわりが随所に散りばめられています。
今回は、この映画をより深く理解するために、いくつかの考察を通してその魅力に迫ります。
考察① 母と娘の関係性と「ママ」という呼び方
本作で特に印象的なのは、母親が娘である杏のことを「ママ」と呼ぶシーンです。
これは実際の出来事ではなく、脚本による脚色です。
この脚色には、母親の精神的な未熟さを表現する意図があります。
足の不自由な祖母に育てられた母親は、経済的に早く大人にならざるを得ませんでした。
その結果、精神的に大人になる機会を失ってしまったのです。
杏は母親の精神的な保護者の役割を担っており、母親は困った時に娘を「ママ」と呼ぶことで、失われた機会を取り戻そうとしているように見えます。
この関係性は、杏が幼い娘と体の不自由な祖母を見捨てることができず、家を出ることさえ罪に感じる状況を生み出しています。
この「ママ」という呼び方は、母と娘のねじれた関係性を象徴的に表しており、観客に強い印象を与えます。
考察② 多々羅刑事の二面性と贖罪
佐藤二朗さんが演じる多々羅刑事は、人情味と歪さを併せ持つ複雑な人物として描かれています。
彼は杏に更生の道を示しながらも、自身も問題を抱えています。
生活保護の申請に付き添うシーンでは、不条理に耐えきれず役人に暴言を吐く姿が描かれています。
これは、正義を行使することが暴力と類似する場合があることを示唆しています。
また、多々羅は麻薬依存症から脱するためのコミュニティを築く一方で、参加者の女性に性的被害を加えるという一面も持っています。
彼は杏を救おうとしながらも、彼女を裏切ってしまうのです。
映画の終盤、桐野との面会で多々羅は涙ながらに「彼女は薬をやめられていたんです」と繰り返します。
このシーンは、多々羅が杏の死に対して深い罪悪感を抱いていることを示しています。
彼は、杏を救えなかったこと、そして彼女を裏切ってしまったことに対する後悔の念に苛まれているのです。
多々羅の二面性は、人間誰しもが抱える光と影を描き出しており、観る者の心を揺さぶります。
考察③ ラストシーンとタイトルの意味
本作のラストシーンで、杏は自ら命を絶ちます。 この結末に対して、「救いがない」という意見もありますが、監督はモデルとなった女性の最後の意志を尊重し、鎮魂をテーマに描いたと語っています。 もしラストで杏が生きることを描いていたら、この映画が伝えようとしていた本質は大きく変わっていたかもしれません。
虐待を受けた子供が、大人になって自分の子供に同じことを繰り返すという話を聞くことがあります。 しかし、杏はハヤトと向き合い、愛情を注ぎました。
これは、もし杏が生きて子供を授かっていたら、きっと優しい母親になっていただろうという監督の願いが込められているのではないでしょうか。
また、タイトルである「あんのこと」は、自分の名前すら書けない杏が初めて買った日記帳につけた題名ではないかという解釈もできます。
これは、杏が自分自身を見つめ、記録しようとした証と言えるでしょう。
ラストシーンは悲しい結末ではありますが、杏の生きた証、そして彼女が抱えていた苦悩を伝えることで、観る者の心に深く刻まれるのです。
まとめ
映画「あんのこと」は、社会の暗部を描きながらも、人間の脆さや優しさ、そして希望を描いた作品です。
脚色によって強調されたテーマや、俳優陣の迫真の演技、そして監督の強い思いが、観る者の心を強く揺さぶります。
この映画を通して、私たちは社会の課題に目を向け、他者への理解を深めることができるのではないでしょうか。
本作は、単なるエンターテイメント作品ではなく、観る者の心に深く問いかける、力強いメッセージを持った作品と言えるでしょう。